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【特集】清水寛二×西村高夫 同人対談「これまで。そして、これから。」 |
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清水 十何年経ったんですかね。
西村 十二〜三年…平成三年が第一回だったと思うので、もう十五周年に近いですね。来年清水さんが道成寺をやることになったんですが、響の会の始まりも道成寺がきっかけでしたね。確か、外側から一緒にやったらどうかと、だから響の会がまずありきではなくて、道成寺がまずありきだったんですよね。
清水 いや、両方あったんじゃないかな。やるにおいては道成寺を最初にやらせてもらおう、道成寺をやるについては何か継続的な会があるほうが、ということだったと思うんです。それで、その響の会って名前は、西村さんがふと思いついて。
西村 ふと、というか謡本ひろげながら何かいい名前がないかなあと。道成寺だから「鐘やひびくらん」、響という言葉が出てくるでしょ? これからいろいろな人と一緒にやって行かなくちゃいけない、響きあわなくちゃいけないということで、「響の会」がいいんじゃないかと思ったんです。
清水 「なんとかの会」のまだ始めの方だよね。前にはもちろん「繭の会」があったわけだけど、そのころから随分増えたんだよね。
西村 結果的には、名前がよかったのかなぁ…と。皆さんにも比較的覚えて認識していただける名前みたいですしね。
清水 いろいろあったけれども、今考えれば、なんとか順調に響の会はきてるかな。途中で研究公演もするようになって、地謡を謡うという企画も毎年一回以上はやってますよね。
西村 先の銕之亟先生(八世観世銕之亟)がいらしたころは、普段の稽古のなかで丁度うまくからんで、地謡の稽古もしてもらったり、いろいろな意味で先の先生には響の会の面倒は見てもらって。
清水 そうですね。先の先生は、その時々の一曲一曲を他の曲にも使えるような稽古をしてくれていたんですよね。地謡にしてもシテ役の時にしてもね。
西村 それに、いろいろな方の稽古があったってことですね。先輩達のお稽古を先の先生がする時に、若いのはみんな寄って、地謡を謡ったりして。
清水 そうだね、自分の舞う稽古だけじゃなしに、人の舞う稽古に参加する回数が随分多かったしね。
西村 今は随分減ってきてるね。
清水 あれは随分勉強になったなあ。ぼくら独立したといっても、「そんなのは独立じゃない。独立は稽古に来なくてもいいってことじゃないから、毎日来い」って、それが基本方針だったから。
西村 要するに住み込みが通いになっただけで…。
清水 それがよかったね。今思えば苦しかったけれど、行きたくないなあとか、本音言うとそうだったんだけど。もうそろそろいいだろうとか、甘えていたけどやっぱり行ってよかったな。
西村 それに下にそれほど若いのがいっぱいいなかったから結局そういうことをしなきゃいけなかった。銕仙会全体の中でね。
清水 それにやっぱり内弟子の間というのは意外にやることが多くて、真に稽古に集中できていたとは思えなかったですね。特にぼくらはそれまでがないから慣れるのに時間がかかって、独立してから自分の勉強が始まったぐらいだったから。そこから能づくりが始った、ということかもしれないですね。だから余計先生もこいつらまだやんなきゃ駄目だと思って、他の人に手を掛けるよりも掛けてくれたから、助かったというか。だけど、他の人は気の毒だったかなあ。ぼくらでくたびれちゃったかもしれない。特にわたしはいつも出来なかったから。何度もやり直しで、一回一曲の稽古をするのに何日もかかったりして。よく時間切れで「また明日だ」と…。
西村 今までやってこられたのは先の銕之亟先生のおかげだってことははっきりしているね。だからそれを基礎にして、そろそろ自分たちで考えて響の会をやっていかなくちゃいけないですね。
清水 そうですね。これからは当代の銕之丞師と、新しい関係をつくり上げながら。
西村 教わりつつ、一緒に創っていく能を目指せたら良いと思う。
西村
「響の会」は自分のやりたい曲をやるという単なる一方的な後援会能というのとは違うニュアンスでやってきてるんですね。かっこよくいえば社会性を共有・維持しながら、大袈裟なことを言えば能の将来を見据えて。銕仙会だってそんなに大きな組織じゃないけれども、やっぱり腰が重くなってるでしょ。その為に「響の会」はどんなことをしたらいいんだろうか、ということを考えながらね。自分が何を勉強するかっていうことも大切だけれども、その片方の面ではそういうことも考えてやっていかないと。
清水 やっぱり一人では能は創れない、というのが強い思いですよね。一緒になって成長してゆく仲間はつくらなくちゃ。もちろん先輩たちの力を得てですけれど。
西村 演者側ではそうですね。だけれども演者だけでも能はできない。やっぱり観客がいてくれたり、催しをやるんだったらスタッフの力も必要なわけです。そうやって皆の力で能をつくっていかないと、そうやって広げていかないと。そのために集いとかいろいろやっているわけですしね。答えを模索しながらやっている訳ですよ。
清水 そうですね。響の会も多少つまっているところもあるかもしれないし、なにかもっと発信のしかたを変えてゆく必要があるんだろうね。
西村 一般の人もそうだけど、学生にもう少し来てほしいね。今の学生の観客層自体に横の繋がりがないんだよね。
清水 ないねぇ。
西村 昔は横の繋がりがあったから、どこかにちょっとコンタクトするとある程度反応があったんだけどね。例えば、関東観世流能楽連盟ってのがあってそれなりの横の繋がりがあったわけだけど、今は参加校も少なくなっているように聞くし。なにかそういうところに「響の会」としてアプローチした時にぱっと反応が広がる様になるといいんだけれども。
清水 少しなんていうかなあ遠慮してるよねえ。銕仙会を主たるものとして活動して、その少しあまりというか、その余力で響の会をやってるみたいな…遠慮があるよね。
西村 それは、銕仙会を中心に考えて行こうという思いがあるからね。予定を立てるにも、銕仙会の来年の予定はどうだろうとか、どんな番組立てになっているんだろうとか、やっぱり邪魔にならないようには考えてるよね。それは当然、ぼくらも銕仙会のメンバーだから。
清水 それは当然いいんですけれど。今までは力を付ける上でやっておかなければ、という発想で曲を選んで来た部分もあるんだけれど、これからは何かインパクトのある曲を公演としてやっていかなくちゃいけないだろうな。そうすれば、それでまた力がついてくるだろうし、反応も大きくなるだろうしね。
西村 これからは出し物としてお客さんがおもしろいと思ってくれる演目を、自分達が今までやってきたことと経験のあることもふまえてやるというのが、理想的だと思う。そのためには引き出しがたくさんないと困る訳だけれど。ぼくらが響の会をやってこなかったら曲りなりにもそんな引き出しは出来なかった訳でしょ。銕仙会のなかで舞う機会はやっぱり少ないですからね。だから自分達が舞う機会を、自分達で作る響の会のなかで引き出しをたくさん作って、その引き出しを今度はどう使っていこうかっていうね。いつまでも勉強させていただきますということではなくね。もちろんまだ引き出しも不十分だからそれも増やさないといけないんだけれども。この曲に初めて挑戦いたしますという催しではなくて、この曲を見せたいというようなものをやっていかなければね。
清水 そういう時期でしょうね。
西村 この間の袴能みたいにね。自分達がシテ舞うだけが全てじゃないから。やっぱりお客さんに面白いと思ってもらえるものであれば、自分達が地謡を謡ったり、どんな形でもいいから舞台に関わっていれば意味があるわけだから。会をやるっていうと自分で舞わなきゃって、せっかく自分の会なんだからみたいなことになりがちだけれども、あんまりそんなことにこだわってもつまらないんだよね。
清水 正直言って会を続けていると経済的に少し…
西村 それが一番心配の種ですね。
清水 ほんとに。
西村 赤字でやってる訳ですから、まあそれは別にいいんだけれども、少しでも健全になるようにね。そうするためにはどういう方法があるのかとか、いろいろ可能性は考えられるけれども。
清水 まず正当にいけば…。
西村 切符をちゃんと売るってことですよ。
清水 売るというか、買ってもらえるようになるのが一番だろうね。それに至るにはやはり…。
西村 でも、今の値段設定だったら黒字にはならないんだよ。ある程度の赤字はしかたないね。つまり許容範囲の問題ですよ。
清水 あたりまえですけど仲間にもきちっと払いたいし、それはやっぱり基本的には舞台で食っていけるといいなと思っているからだよね。
西村 役者にとってそれはお互い様なんだから考え方次第ですよ。安くていいじゃないかって言う人もいるし、払うものは払って今度貰うものはもらうという、二種類の人がいますけど、それはどれが正しいという問題じゃなくて選択の問題ですよね。
清水 一所懸命にやってくれていい舞台を作ってくれた時はいくら払ってもいいし…。無い袖は振れない時もありますけれど。
西村 まあ今の世の中で言えば、野球なども同じで年棒はどんどんどんどん上がっていくし、お客さんは野球場にそんなに来ないしね。最近は、野球選手のヒーローインタビューでも「ファンの皆さんの声援のお陰です、是非明日もまた球場に見に来て下さい」で終わる。以前はこんな言葉は聞かれなかったですよ。野球選手でさえ危機感を覚えているのに、まして我々能役者は自分の座にあぐらをかいていてもダメでしょう。積極的にアッピールして観客を大切にしていかないと、いつか見捨てられてしまいますよ。だから何処をどうゆうふうにしたらいいのか。これは僕らのだけ問題じゃなくて今の能楽界がかかえていることでね。
清水 全体の基本構造の問題ですよね。
西村 とにかく観客に観てもらって初めて存在するわけでしょ。「あの時のあの人の能はすごかったよね」という記憶があって、人にいろいろ話してくれたり後世伝えてくれたりする訳じゃないですか。だからとにかく観てもらってあなたの舞台の記憶は私のなかにとどめてありますよということがあって初めてその役者がそこでやったということの意味があるわけですよね。つまりお客さんにたくさん観に来てもらわないといけないわけでしょ。大勢の人に証人として残ってもらわなければいけない訳でしょ。ぼくらもこの世界にひきこまれたのは先輩が熱く語ったからですよ。先輩がいい舞台を観ていい役者を観て、観世寿夫って人は凄くいいんだよと語ってくれた先輩のその熱い思いがぼくらにあるんです。
清水 そしてその舞台がよかったから。
西村 能の研究書とか解説書を読んで能が好きになったんじゃないんだから。人を動かすのは人の直接的な熱い思いでしょ。自分が面白いと思ったらそれをとにかく一人でも…。
清水 そう、人に伝えてほしい。
西村 「面白いんですよ」と、そういう関係を増やしていってくれたら、それが広がっていくでしょ。
清水 是非人に感動を伝えて欲しい。感動を伝えられる人を作って欲しい。当然感動をしてもらう舞台をつくるということが第一だけれども。逆に舞台が面白くないと思った時など、それを舞台に返して欲しい気もするんだなあ。
西村 お客さんの反応は舞台上からよく分かりまよね。
清水 途中ですっと帰るとかね。あの時誰か帰ったねって楽屋で話題になりますよね。あんなところで帰らなくてもいいのにねって。もしそれがいやで帰ったわけじゃなくてもね。
西村 肌で感じるものはありますよね。
清水 息をのんでいるとかね。
西村 全体が集中して観てくれている時の感じと、なんとなくしらーっと密度が薄いっていう時では全く違いますものね。
西村 ところで、この間の「響の会の集い」で、能の始まる前のなにも無い舞台を見てだんだんと集中してゆくと言ってた人がいたけれど、そういう思いはさもありなんと思ったね。そのためには開場時間を早くするとかね、ロビーになんらかの工夫をして能をみることのイメージを喚起するような仕掛けが必要かもしれないね。
清水 そうですね。あわただしい日常からやってきたときに、ホッとできる、能を観るために体をかえてゆける時間と場所がロビーにあると助かりますよね。
西村 楽しい情報がロビーにあってもいいと思うんですよ。そうすると能楽堂の敷居が高いというイメージも少し変わるんじゃないかな。これからは何かサービスをしなくちゃいけないと思う。それは、わいわいがやがや、っていうんじゃないけどね。
清水 昔はたぶん、観る人の熱気自体が、これから能を観るんだという環境になっていたんだと思う。それぞれが期待して観にきてるってことがお客同士で分かってたんだと思うね。ちょっとしたことでもやってみれば、環境は違ってゆくだろうからね。
西村 今までの響の会の舞台写真を展示したりね。
清水 すこしでも、いくつかためしにやってみましょうよ。
清水 来年は名古屋でも響の会をやるんだよね。
西村 十二月十一日の予定です。名古屋に素人のお稽古に行って十年くらい経つのかな。いろんな人たちのなかで、やってみてはどうか、とありがたくもお声があったので。それが毎年できるのか、やってみなければ分からないですけどね。できれば毎年、いっぺんくらいできればいいなあ、とは思いますけれど。
清水 声がかかるということは大事なことですよね。
西村 来年、東京では原点に帰って道成寺をやりますし、また改めて始める感じですね。
清水 そのとき西村さんは田村ですよね。
西村 そうです。そしてまた再来年はわたくしが道成寺をさせて頂くことになると思うんですけれど。はじまりの時もそうでしたからね。清水さんがやって翌年ぼくでしたから。そうやってもういっぺん精神的には原点にもどって、今までとはまた少し違うことをやっていきたいですね。ゼロにもどる、ってことではなくね。
清水 そうだよね。初心忘れるべからずはゼロにもどるっていう意味じゃないんだものね。次なる初心をね。●
聞き手・大久保利佳
【平成十六年九月二十一日 銕仙会能楽研修所にて】 |
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【特集】野村四郎氏・山本順之氏インタビュー「通盛を語る」 |
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来る十二月十八日、響の会 第二十四回研究公演にて上演される「通盛」には、シテ(通盛)に野村四郎氏、ツレ(小宰相局)に山本順之氏という、能楽界を代表するお二人を迎える。故観世寿夫氏最後の番組であるこの曲に寄せる思いと、今冬の上演に向けての意気込みを聞いた。
1.野村四郎氏
清水 今回、十二月の私共の研究公演で「通盛」のおシテをお願いするわけですが、まず、この曲の魅力・醍醐味はどのあたりにあるとお考えですか。
野村 通盛という曲は特に前にあると思います。例えば演出上でも、舟の位置をどこに置くかということで随分前シテの世界が変わることが今まで勤めたなかで実感しています。それからやはり大事なのは小宰相局ですね。今回山本順之さんにあえてお願いしたのは、舞台全体を考えている方だからです。ツレっていうと若い人がやるけれども必ずしもそうではないと思います。特に通盛という曲は、シテとかツレとかという立場を超えた世界があるのではないかと思います。普通、主役とツレという関係だと、ツレがいつでも控えめになっているけれども、通盛では逆にシテの方が少し控えめな感じがします。観世寿夫さんもおっしゃってたけれど、前シテは小宰相局(前ツレ)の陰になにかいつも佇んでいる、そうすると漁翁自体がそんなにはっきりとみえなくていいんだ、という考え方をしておられました。通盛にはいわゆる舞台面の華々しさはないですよね。鳴門の渦潮を背景に、巌の上に経を読んでい僧がいる……なにか墨絵のような世界。その明るさや暗さを言葉や演技によって表現できれば、まずは通盛かなと思いますね。
後では、武将として華々しい活躍をするというよりは、陣中からわざわざ小宰相局に会いに来た通盛の人となりの世界があると思いますね。そういう意味では通盛という曲は夫婦愛のようなものがテーマになっている。全体の流れにやさしみがありますよね。結局この曲はシテが演技をしているというより、一曲語りつくしているようなところがありますね。シテも語るが地も語る。したがって地とはもちろんですが、囃子方との調和が非常に重要視されます。シテが華々しい演技で見せるようなところが一回もないじゃないですか。前は舟に乗って舟で終わるわけだ。後も最後のキリの動きが多少あるだけで、とにかく小宰相と対座して終わる。全体に地謡もふくめてコクがないと成り立たない曲かな、と思います。
そして、この青山の舞台というのは特にもの寂びた感じが表現しやすいですね。今言った墨絵風な世界を表現するには大変いい舞台であると思います。舞台自体に雰囲気を持っているから負けちゃいそうなんですよね。そこに役者がどう立ち向かってゆくかということがあります。
清水 たしかにこのツレはやりごたえのあるツレですよね。ツレというよりも…。
野村 今言ったようにシテ・ツレの関係を超えてますよね。僕たちは常套語として「シテ」「ツレ」と言ってしまうけれど、実はそうじゃないと。やはりその役名で呼び合った方が存在がはっきりしますよね。本当に舞台面は静かだから、何かで表現していかなかったら無味無感で終わってしまう。舞もない、所作らしい所作もないでしょ。だからそれをどうやったら克服できるか。
清水 そうすると、地謡の責任が大きくなってきますね。
野村 そのとおりです。地謡も勝手に奏でるのではなく、囃子と地謡の一体となったそのひと塊を役者の体の中に通すように、そして抱いていくようなね。僕は先代の銕之亟(八世観世銕之亟)さんの地謡をよくさせて頂いたんですけれども、その時いつも僕はシテの体の中を一度通すような気持ちで地謡が謡えればいいな、と思っていました。それが現実にどれだけ功を奏したかは分からないけれども、そういうふうにお能をつくってゆくといいと思うんですよね。どうしてもばらばらでしょ、それじゃもう一つ甘いんじゃないかと。もう一つ突っ込んで、前向きに舞台というものを考えて行った時に、なにか「ひょっ」と変化してくる、意識的に変わるんじゃなくね。そういった精神面みたいなものが通盛には大事だよね。舞台の照明はなにも変化しないんだけれども、それが暗くもなり明るくもなり、そういう情景的な描写、それから心理の描写、いろんなものが織り混ざって能は出来上がってるから、ひだひだみたいなものを的確に謡い込むということが、通盛に限らずどんな能にも我々が課せられてるものとして受け止めなきゃいけない。
清水 特に通盛は明るいとか暗いとか、それから温度、そういったものが地謡の息で出せると素晴らしいですね。
野村 ちょっと感覚的だけれども、例えば潮騒の音が聞こえてくるとか、海風が頬を撫でるみたいな感じがしたとか…。彫刻的な面と絵画的な面が視覚に訴え、そして音は聴覚に訴えるわけなんだけれど、一つ足りないね、嗅覚にも訴えないと。潮の匂いがするというかね、そういうものが表現できればいいね。
清水 からだを包み込む空気自体を…。
野村 けれども、演技者があんまり空気を動かしちゃいけないと思ってるんです。空気が動かないのに空気が動いているように感じる、それにはそうとうに皆が凝縮感を持って舞台に臨んでいかないと。特に狭い舞台というのは一人一人の息づかいがすぐ伝わるわけですから。地謡の音が合っているということではなく、息と気が合えば自然に音は合うんだ、音を先に合わせるんじゃないんだ。そういうことを考えてみたらどうでしょうか。
清水 まず音を合わせるのでは、本当には合ってないということですね。
野村 そうなんです。音の元になっているのは息と気なんです。単に音で表現するのではなく、気と息で表現していけば訴えかけは強くなると思います。
清水 先日、藤戸(九月三日 第二十二回研究公演/シテ・観世榮夫氏/地頭・野村四郎氏)の地謡を横で謡わせていただきましたが、それが実感として分かったような気がしています。
野村 この間の藤戸、自分が一緒に舞台にのっててシテがよかったなんて、本当は言葉としてつかえないのかもしれないけれども、僕は実感としてやはり、シテとの呼吸が上手くいっていたと思います。それから袴能の持つ現実的な時間の流れといいますか、現実的な時間の流れに若い役者だとなかなかああはいかないので、さすがに老獪なる榮夫さんだな、と僕は思った。だけど、袴能は本当にやりにくいと思いますよ。面をかけているというのは、自分を隔離して遮断をしているわけですから。その遮断をしたところからそれを打ち破って相手に訴えようとするでしょ。それを生でやるというのはね。その上観客席が近いとさらに大変です。
袴能は、装束を着ないだけで他は変わらないわけです。装束を着ているというのは随分助けにもなるでしょうし、面も有る無しじゃ全く違いますしね。体から表情が抜けてしまったら何もならないですし、かといって過度になり過ぎたらなまなまし過ぎるか…。その辺のバランスというのが難しいですね。そういうことの出来るのが、役者ということなのかもしれませんね。「能楽師」じゃなかなかできない、「能役者」じゃないと。自分の観念が「アクターだ」と思っているのと「プレイヤーだ」と思っているのでは随分違いますよ(笑)。職業欄には能楽師と書きますが、精神は能役者でありたいなと思います。特に銕仙会の人たちは、観世寿夫という人の能役者としての志を指向したのだから、伝統的にそういう気持ちが浸透していますね。
型の伝承も大切ですが、根本にある「精神」が伝承されてないと本体が変わっていっちゃうんです。型は時代によって考え方が変わりますから変化してきたのがあたりまえなんですね。これからも変化するでしょうし、していいんですよ。もちろん変えちゃいけないところもありますけれど。時代時代によって価値観が変わっても長い時間を呼吸することができたのは、能の持っている最も重要な部分、普遍的なテーマがあるからです。しかるに、その一番大きな「普遍的テーマ」は何かと言ったならば、生きとし生けるものにはかくべからざるものとしての「生と死」といったもの。生の喜び死の悲しみと言ってね、その普遍は草花にも鬼畜の類いにも、もう凡てに繋がるんですから。そして、仏教というのは悉皆成仏、万物全ては仏になりますね。仏教は生きとし生けるものの宗教だと思います。その仏教的な哲学が能の中に浸透してるでしょう。つまり思想劇なんですね。
清水 なにか救われると。
野村 そうそう。例えば鵜飼でいうと、禁漁を犯して地獄に堕ちた漁師を、簡単にいうと、仏の功徳で閻魔大王が極楽に導くというストーリーです。当時の人たちはどんな感じで観ていたんだろうね、「ああ、ひょっとして自分も救われるんだ」と思っていたかもしれませんね。悪いことをすると苦しむんだということもありながら、能を観ながら救いを求めていたのかもしれませんね。
清水 私は今回初めて松風をやらせて頂くのですが、松風も随分なさってらっしゃるでしょうし、お話を聞かせていただけますでしょうか。
野村 若い頃は僕の体の中に松風という曲はありませんでした。村雨という曲ばかりでした(笑)。このツレは雅雪先生のも寿夫先生のも静夫先生のも、いろんな方のをさせていただいたけれども、シテを初めてやった時に、やっと松風って曲をやるんだ、今までは村雨って曲をやってたんだ、と思ったんです。感動的でししたね。
松風は独特で、潮汲の段が終わると囃子方は床几下りるでしょ、床几をおりるということは中入りですね。つまりあれは二場本だと二場のものなんだという。あの状況がどういうものであるかということを大いに考えて欲しい。潮汲の能といってる潮汲の段とそれから物着から後の段と、その間にあって、実は一番中心になっているのはクドキの段ですよ。そこが骨になっているんですね。何もやらないところが一番大事なんです。そこにエネルギーを、動かない体力を使っていかないと。あそこが歪んでしまったら松風は成り立たないと思います。普通だと床几にかけると安心してしまって、なにか空気が澱んでしまうんですね。冗漫な空気が現れてしまってひと休みみたいになっちゃうでしょそのひと休みみたいなところが一番やりにくいしポイントになっていくんじゃないでしょうか。
松風のようなお能は幾つかありますね。代表的なのは井筒でしょうか。業平の形見を着る、これは死後の形見じゃないですよね、別れの時にもらったものでしょ。それを着ることによって狂おしい世界を表現しようと。性の交錯というか、女性が男装するということは、ある官能的なものがありますよね。
松風が行平の形見を着る、着ることによって行平の魂のようなものが乗り移ってくるというお話ですよね。そこに、能でしかできない世界があるはずです。それをどうやって表現するかという…。観世寿夫という人だったならば、完全に行平が乗り移っているでしょうね。袖を翻している、袖だけが動いている、舞うのではなくなにか狂おしい世界を動いている、そういうふうにしていかないと松が行平に見えて来ない。形見の物を着るというのは、その人の魂を着るようなものでしょ。例えば、形見の衣を持って「これをみる度に」と言ってだんだん狂おしい姿になって現無くなっていきますね、物着でそれをついに着るでしょう…。その間の葛藤や変化、そういうものがデリケートに微妙に変化していって、後シテ、いわゆるキリになってゆく。それを役者がどのへんの勘所を掴んでいるかという、松風の魂をどこまで掴めるかっていうところでしょ。そういう思いで松風をやって欲しいなと思います。大いに期待しています。
清水 響の会について何か一言いただけますでしょうか。
野村 ほんとに響きあっている。名は体を表すじゃないけれど、観客と演者が響き合う、これが一番大事なことだと思いますよ。近頃はこちらが発信してもなかなか受けてくれない場合もありますしね。また、君たちの独立した思いをとげようという会だとも思ってます。この響き合うというのは舞台上のわれわれ役者の響き合いもあろうけれども、あくまでも観客との響き合いをテーマにしてつけた名前だろうと思うし、いいことだなと感じてます。ただ、言葉のやりとりで響き合っているんだ、となっては間違いかなと思ってます。
清水 お話を伺うと、私たちのこれからの課題が山積みだと余計に実感してきます。今後ともよろしくお願いいたします。●
【平成十六年九月二十九日 銕仙会能楽研修所にて】
野村 四郎 のむら しろう
観世流シテ方。1936(昭和11)年、狂言方・六世野村万蔵の四男として生まれる。1952(昭和27)年、観世宗家に入門、二十五世観世左近に師事。1962(昭和37)年、独立。以来、圧倒的な存在感と安定感で多くの舞台を演じ、流儀を超えて活躍する能楽界の重鎮。また、海外への能楽の普及にも貢献。近年は、高浜虚子作の新作能「実朝」、邦楽アンサンブル「竹取物語」の上演等、新たな試みにも積極的に取り組んでいる。著書に、「能を彩る文様の世界(檜書店刊)」ほか。
1988(昭和63)年、野村四郎の会「求塚」で文化祭芸術賞受賞。1994(平成6)年、芸術選奨文部大臣賞受賞。1998(平成10)年、紫綬褒章受章。2003(平成15)年、
第25回観世寿夫記念法政大学能楽賞受賞。
日本能楽会常務理事、東京芸術大学音楽学部名誉教授、ハワイ大学客員教授、ワシントン大学講師、(財)観世文庫評議員、重要無形文化財総合指定保持者。
野村四郎の会主宰。
2.山本順之氏
清水 まずは通盛について伺いたいと思います。おシテはもう何回かなさってらっしゃると思いますが。
山本 シテは三回やっています。
清水 ツレも何回か…。
山本 ツレは兄・勝一のをやってますね。二回くらいでしょうか。通盛といえば、なんとしても思い出にあるのは、師匠の観世寿夫先生が亡くなる前に通盛を舞われたんですね。東京で、確か、梅若の舞台だったと思うんですけれどツレが片山慶次郎さんで…。
西村 西でも舞われましたね。
山本 大阪で、蝋燭能でした。大槻さんの自主公演でお舞いになって。その二番お舞いになって、その年の暮れに亡くなったんですよね。だいたい老年になると、すくなすくなになった能で最後の方が多いんですが、寿夫先生は突然、といった感じで、五十三歳で亡くなったんですね。通盛を連続して演じて逝かれたということがどうしても自分の思い出にあるんです。
清水 大阪の時はツレだったのでしょうか。
山本 違います。わたしの思い違いでなければ、大槻文蔵さんがおツレだったと思います。これは余談なんですが、私の素人の稽古日にちょっとあしらってくれ、ツレと合わせるのでとおっしゃって、お引き受けしてはじめたところ、どんどんどんどん先へ進み最後まで行っちゃったんですよ。
西村 まるまる一番…。
山本 まるまる一番。先生らしいなぁと思ってね。途中でやめるとおっしゃらないものだから、お弟子さんは待ってるし、大変な時間の食い込みようだったことを覚えています。わたしもいいかげんなあしらいだったと思うので、本当に冷や汗を流しましたけれども。そういう思い出もございますね。
寿夫先生は若くして亡くなられたから、通盛も数多くは舞ってらっしゃらないと思います。それから、通盛のツレを大口・壷折でなさったのも、その東京での上演が初めてだったでしょう。
西村 今回もその装束でなさるんですか?
山本 それはおシテのお考えによるので。後ツレを普通の紅入唐織りでやることもありますし。一番なんでもないのは前シテから若い女でそのまま中入りで通小町のように後見座に着座して、後シテが出て来たら一緒に立ってそれで出てくる。今は前ツレはやや地味な感じでやって、シテと共に中入りし、後は若い姿でやるのが常になってきましたけどね。ですから、後見座に座っているのはこの頃見たことないんです。
清水 最近は作り物の向きもちょっと横にしたり斜めにしたり…。
山本 あれは先の銕之亟(八世観世銕之亟)さんの考えによるもので、古い型付けにあったんでしょうか。
寿夫先生はそれをなさらなかった。それはまた寿夫先生なりの考えがあったんでしょうけれど。わたしくしがこの間、七月に大槻文蔵さんの公演でやりました時は、蝋燭能だったものですから、余計にちょっと斜めにした方が風情があるかな、と。文蔵さんにも勧められて、斜めにして舞ったんですが。あれは舟のかがり火の光を頼りにお経を読むというのですから、そういう意味ではちょっと近づくし。光が届くような感じはしますね。常のところではとても遠いような感じがするんですけれど。あれは先代の銕之亟さんの独創じゃないでしょうか。
清水 寿夫先生はシテは隠れてていいんだということをおっしゃってましたね。
山本 そうですね。ちょっとツレの後ろに隠れている方かえっていいんだとおっしゃって、二度とも常の位置でしたね。
清水 通盛に限らず寿夫先生のおツレを随分なさっていると思うんですけれど。
山本 ああ、でも僕は案外やってないのです。やはり若松さんが多い時代があって、次には浅見さんが多いんじゃないでしょうか。
西村 地謡の方が多いのでしょうか。
山本 いえ、寿夫先生の地謡(地頭)を謡うなんてことは、当時はまずなかったと思いますよ。
西村 でも、繭の会ではなさってたと記憶していますが。
山本 繭の会ではあえて我々が企画して、その頃からそろそろ地頭を謡おうということでした。わたくし自身のことですが、三十代の頃でしょうか、大阪能楽鑑賞会で寿夫先生が錦木をお舞いになった時、なにげなく私に一度謡ってみないかとおっしゃって、びっくりしたんです。そのころはもう決まったように先生の地頭は静夫先生(八世観世銕之亟)だったんですね。私が大阪出身ということもあったんでしょうが、その時初めて地頭を謡わせて頂いたことが非常に記憶に残っています。それが、寿夫先生の地を謡った最初とはいいがたいんですが、ほぼ最初に近いんじゃないでしょうか。それ以後はちょくちょく銕仙会でも謡わせて頂きました。
寿夫先生が亡くなってから…といったら何ですが、地頭を謡うことが多くなりましていろいろ勉強させて頂きましたが、先生に教えを受けた地謡というものを引き継いでやっていかなければいけないという気がします。
清水 繭の会では景清か遊行柳か…、何番か、同人で地を謡われましたね。
山本 ありました。四番あったんじゃないでしょうか。松風が最初で、景清、遊行柳、砧、その四番を僕と浅見さんと若松さんと地頭を交代で。それは本当によく覚えていますね。一番最初は松風で、囃子方が安福先生(安福春雄)、幸先生(幸祥光)、藤田先生(藤田大五郎)という最高のメンバーですね。その時に賞を貰ったんで…。ただ、囃子方の方々が貰ったんですね。わたくしどもに、ではなかったんです(笑)。
西村 催しに対して貰ったんじゃないんですか?
山本 そうじゃないんです。もちろん繭の会という記録は付いたでしょうが、お囃子方のみに対してです。その頃は横綱に十両があたるような感じでお囃子方に贅沢にお相手して頂いたんですが、地謡の成果が悪ければ、囃子方にも賞はいかないでしょうと、少しは私たちの力もあったんではないかと慰め合いました。その時は、寿夫先生がおシテでツレは静夫先生でしたね。本当にベストメンバーだったと思います。
西村 今、繭の会の話がでてますけれども、それに絡めて我々響の会に対する御批判なりアドバイスなどありましたらお願いいたします。
山本 そうですね、我々が繭の会をやっていた時代と随分変わって来たと思うんですね。それに師匠も変わってきたでしょうし。私どもの繭の会の時代には習作といいますか、自分達が寿夫先生に習ったのをそのまま舞台にのせて、それが十年くらい続いたでしょうか。今はもっといろいろなことが多様にやれるような時代になってきましたね。響の会は、舞台を変えたり、演者を選んだり変わった取り合わせをしたりと、方向性がいろいろあっていいんじゃないかと思いますね。ただ、幅を広げることがいい方向へ向かうようにしないと、ただやっているだけのことになっちゃうんじゃないかなあと。二人だからやれることもあるでしょうが、反対に散漫になるようなこともあるからそこも気をつけないといけないと思いますね。
西村 響の会では、お客さんとも話す機会を持とうと「響の会の集い」を催しているのですが。先生の時代はいかがだったのでしょうか?
山本 残念ながらそういうことはあんまりやっていませんね。能演後、師匠から厳しい批判を仰ぐくらいでした。
西村 観客動員は具体的にはどうなさっていたんでしょうか。
山本 やはりお弟子さん中心でしたが、他に広告を出したり、ある時は浅見真州さんの案で横尾忠則氏に頼んで大きなポスターを作ったり…。
西村 それは随分贅沢なポスターですね。
山本 そういう変わったこともやってみましたね。他には…、今のように観客とのトークショーなどはやったことは無かったと思います。
清水 四人の同人がいらっしゃると、お客さんを呼べる強さはあったでしょうね。
山本 それでも観客動員はかなり厳しかったと思います。ただ、年六回春夏三回づつ、これが十年続きましたから、そこで培った基礎は今に役立って私どもの力になっているのは確かだと思います。
清水 稽古も随分あったのでしょうね。
山本 そうですね。繭の会に関して言えば、会は結果であって、それ以前は「伝書を読む会」といって、我々同人の他に表章先生、寿夫先生、今の法政大学能楽研究所の所長さんの西野春雄さん、他に、銕仙会の若い方たちにも呼びかけて、世阿弥の伝書を一通り読みました。それが何年か続きましたかね。他方では舞台に出す前に寿夫先生に稽古を見て頂くということで、研究会を月に一回持ちました。今のように忙しくないから、朝の九時十時から始って、稽古のあと昼を食べながら映画の話をしたり、寿夫先生は厳しい一辺倒ではなくて、非常に趣味の広い方でしたから、いろいろ能以外のお話を聞けたことは我々幸いだったとは思いますね。それだけいい時代だったんでしょうが。
清水 能が終わった後は随分厳しい…。
山本 それは厳しかったです。飲み屋へいって話しているうちに、だんだん厳しくなってきて、今やった能のことを細かく細かく批判されて畏縮してしまって…。それはもう、深夜に及ぶまで。
清水 舞台以外には山などへもいかれたと伺ってますが。
山本 それは繭の会よりもずっと前ですね。私が早稲田の観世会を受け持っていた頃でしょうか。寿夫先生は舞台の話ばかりではなく、山へ行こうとか美術展に行こうとか、本当に学生と対等に接してらっしゃいました。先生は健脚だから早いんですよね。なんでもトップへ行かなきゃならないと言う感じで、一緒に歩いていると、あっという間に見えなくなって、休憩所で「君たち遅いねえ」と言われたりしましてね。お寺巡り、山登りと随分ご一緒させて頂きました。寿夫先生も若い世代と楽しまれていたような気がします。
清水 先ほど、松風の話が出ていましたけれど、その頃の松風というのは一番しっかりしていたんじゃないでしょうか?
山本 そうでしょうか。
清水 僕達が学生の頃に見ていたころはすごくしっかりしていたような気がしますけれど、時代によって変化はあるのでしょうか。
山本 それはあると思います。
西村 寿夫先生の松風と銕之亟先生(八世)の松風は、イメージがちょっと違うような気がします。
山本 違いますよね。ただ時間を調べてみるとそう変わらないと思います。それは物理的な時間ではないと思いますね。寿夫先生の能というとしっかりだと言われることが多いですが、以外とさらりとしたところもあったんじゃないでしょうか。今テープを聞いてみてもそれほどの重さじゃないと思うんです。
能が一番しっかりしていたのは戦後すぐじゃないかな、と思います。その前ですと明治の頃でしょうけれど、その頃は序の舞が五段あったり、一声でも越の段を必ず入れていたようですから。そうですね、現在の舞台は寿夫先生の時代より少し軽くなっているかもしれませんね。
西村 観客の時間に対する我慢度みたいなものも変わってきているのでしょうか。以前だったら重くても大丈夫だったものが、今の人には無理になってきたというか。
山本 それはあるでしょうね。それで思い出したんですけど、先の銕之亟さんが、今の観客には三段の序の舞でもちょっと重いんじゃないかということで、我々の言葉でいう「二段おろしあと二つ目の呂上がり」などでやって、そのかわり位自体はそんなに早くしないんだということで、実際なさってましたね。古典芸能と言いながらも、やはり観客とともにあるものだから、もちろんあまり迎合しちゃいけないけれど、時代の好みなりに反映させていかざるを得ないでしょうね。そういう意味では普通の芝居と同じだと思います。
西村 観客層も演者側も世代交代は当然あるでしょうし、お弟子さんも年をとられて、強く支持してくれている客層は老齢化してきてますね。
山本 そこがこれからの観客動員の難しいところですね。新しい客層が生まれてくれればありがたいけれど。
ただ我々の時代と違って、今はずいぶん能を志す学者が増えたと思うんです。僕らの頃は、表章先生、横道萬里雄先生、そのお二人ぐらいしかいらっしゃらなかった。昔は能の案内書のようなものも少なかったけれど、今はどこの本屋に行ってもあります。二、三人私も教えていますが、大学院でも男女を問わず能を専門になさる方が増えていますね。そこでその学者達からの観客の広がりということもあり得るでしょうし。
清水 そうですね、能楽学会もできましたし。
山本 能楽学会ができるなんて思いもしなかったけれど、楽劇学会の他にまたあるんですよね。それがちゃんと活動しているということですから、そういう意味では能楽が世の中に広く認められてきているということが言えると思いますね。●
【平成十六年九月二十一日 銕仙会能楽研修所にて】
山本 順之 やまもと のぶゆき
観世流シテ方。1938(昭和13)年、能楽師・山本博之の四男として大阪に生まれる。父に師事し、1945(昭和20)年に「花月」で初シテ。1962(昭和37)年、早稲田大学卒業。銕仙会にて観世寿夫、八世観世銕之丞に師事。特に謡いには定評があり、長きに渡って銕仙会のよき地謡を支えてきた。
1970(昭和45)年、大阪文化祭賞受賞。1975(昭和50)年芸術選奨文部大臣賞受賞。1984(昭和59)年、「布留」を復曲上演。1998(平成10)年、第20回観世寿夫記念法政大学能楽賞受賞。日本能楽会会員。重要無形文化財総合指定保持者。山本順之の会主宰。
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【寄稿】伊藤迪夫氏「冬ソナに勝つ能」 |
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能の美や特徴はその定まった様式性にあるといわれてきたが、これは能が江戸時代に式楽として大成した歴史的経緯に関係している。能は封建制度の代表格である武士階級を基盤として発展していて、その美意識が反映されている。江戸時代の精神に基づく人と人との関係には一般に距離があり、長い間固定されていた公的な上下の身分関係が重要で、その結果しきたりや決まりごとが重視され、能もいわば静的であった。
しかし幸いにも(不幸にも?)民主化された今はどうであろうか。人と人の関係がはるかに個人的になり、密接になり、移ろいやすくなっている。その結果、冬のソナタのような、人のナマな顔が大写しになる波乱万丈の恋物語がウケルことになる。そこで響の会が冬ソナに勝つ手立てを一観客として考えてみたい。
能の様式的な美には武士のように堂々とした、凛とした品格があるので価値があるとされたのだが、それだけでは今の時代の大多数の観客は飽きてしまう。なにしろそのような精神を持つ人は減っているのだ。ただどの能も皆同じように見えるばかりだ。それを避けるには能の詞章をよく吟味して文学的内容をしっかり把握し、その意味の流れに従って内容を明確に観客に示すよう努力しなければと思う。能の型や謡い方に工夫が必要となる。一曲のここぞと思う中心的部分では特に様式を大胆に崩し、ナマな感情が表に出るように演じ謡うほうが良い。たとえば井筒で、形見の直衣身にふれて、のような場所だ。様式が崩れる一瞬に観客は深い美を認める。今の観客には様式が崩れるとは生活上の体面とか面子、社会的規範が崩れると映ることが多いのだ。様式を崩すとは、すなわち演者が面子を捨てて本音を出すことに映る。だから社会的規範では苦労している大多数の観客はわが意を得たりとなり、美を感じるのだ。しかしどの場所で崩すかが重要だ。文学的な仕掛けの頂点で崩さねばならない。これがハマルとテレビドラマなどでは示せない高度な美が生じて、ヨン様にも勝てるのです。舞いの笛の旋律などもいつも似たりよったりの定型の繰り返しではなく、曲やその中の場所に応じた現代に通ずるような工夫が欲しい。勝ち続けるには能の出し物も選ばなくてはならない。今や良い能と悪い能に能を分別するくらいの心構えが必要です。人間の感情が重視されていて、かつ、文学的に高度な能が良い能です。松風、道成寺、なども良いでしょう。神物はお正月などには好いがあまり出さないほうが奥ゆかしい。江戸時代なら別ですが。時代によって多数派の人の好みは変化するのです。今は大名のような神がかった生活をしている人は少ない。だからそのような人は無視してよいのです。三山などの良い復曲物や新曲の利用も考えられますが、新曲とは名ばかりの旧態依然の能もあるので選別に際しては要注意です。創世期の能は今よりもエネルギッシュであったと思われる。
以上勝手なことを書きましたが、能の将来を背負うべきは時代の先端を行く銕仙会のそのまた先を行く響の会と念じてのことです。
※伊藤さんはご夫妻でよく舞台に足をお運びいただき、響の会の集いにもご参加いただいております。 |
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【レポート】「第22回研究公演 アンケートから」 |
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昨年、病気療養のため出演出来なかった観世榮夫氏をシテに迎えての袴能が、今年、第二十二回研究公演「藤戸」で実現しました。一年間心待ちにしていらっしゃった方も多かったことと思います。かつては夏の時期によく催されたという「袴能」ですが、初めてご覧になった方も多かったようです。アンケートでは袴能ならではの味わい、凄みに対するご意見を多くいただきました。また、舞囃子「東方朔」は清水・西村が新しく始めたシテ・ツレコンビの第一弾。華やかな楽の相舞で会場を魅了しました。
今回も、ご回答いただいた公演アンケートから一部をご紹介いたします。当日会場に足をお運びくださったお客様、そしてアンケートにご協力くださった方々にこの場を借りて厚くお礼申し上げます。●
■ 舞囃子「東方朔」 シテ・清水寛二/ツレ・西村高夫
◇素面で目線がどのようか少しわかり、面白いと思いました。後ろ姿に緊張感があり、舞囃子も良いものだと感じます。
◇東方朔の迫力と優雅さにひきこまれました。
■ 袴能「藤戸」 シテ・観世榮夫/ワキ・宝生閑
◇袴能初めて拝見いたしました。(同意見多数)
◇袴能でも前シテと後シテの着物はかわるんですね。
◇地取でぞくっと寒気がしました。殺気立つ曲が始まったんだと思いました。今回の能は皆真剣さが違うと感じました。しかし、地謡が迫力がありすぎて、全体的にがっちりしすぎていて、押す引くのようなものがもう少しあると見る側は一緒に呼吸ができますが…。
◇直面のお能は凄い!と思いました。前場での榮夫さんの眼力が鬼気迫っていて観ていてゾッとしました。面をかけていてもその母の怨みは充分に伝わってきますが直面はさらに凄いです。
◇顔の表情などが、直接その情感を表現していますので、迫力があり老婆の感情と情景がいたい程に伝わってきました。地謡も一糸乱れず力強く素晴らしいものでした。
◇漁師が執着から解き放たれる瞬間が素晴らしかったです。
◇せつなさがこみあげてきました。
◇大家の演ずる袴能はこれ程までに感銘深きものかと思いました。
◇観世榮夫さんの演技が見られて、嬉しかったです。
◇今まで拝見した中で一番素晴らしいと思いました。
[アンケート総数・二十通] 文・まとめ 三上 麻衣子 |
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