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【巻頭言】清水寛二「アインシュタインの能から」 |
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五月に新作能「一石仙人」の公演に地謡方として西村君と参加する。
主催はケンタウロスというオートバイのグループ、作は免疫学の多田富雄先生、シテはかのアインシュタイン(津村禮次郎氏)で、その「相対の理」が主題。
多田先生の新作能「望恨歌」(シテ観世榮夫氏)には何回か後見・地謡として参加し、現代能としてよい作品と思い、響の会としてもとり上げたらと思っているが、今回の「一石仙人」もなかなか面白い。
作中シテの「ここはいずくにてもなし、またいずくにてもあり。また時とても現在にても過去にてもあるべし。」という言葉は全く私達が立っている能舞台の空間・時間そのものを言っているように思う。
今年の響の会、脇能から切能まで魅力ある番組が組めたかと思うが、各々を生きた舞台にするためになお同人二人の相互の引力・反発力を強め、活動の座標軸を広げていきたい。そして客席とのさらなる響き合いを構築していきたいと思う。 |
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【巻頭言】西村高夫「人から人へ」 |
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先日地方で、ある人の喜寿祝いの「謡曲と仕舞の会」が行われ、ホールに舞台を設営してにぎやかな内に終えたのですが、その際ロビーに能に関する情報紹介スペースを作ってもらいました。舞台写真の展示や紹介ビデオの放映、参考書籍の閲覧など、能を観た事の無い一般の人たちの“退屈な思い”を解消してもらえたらと思ったのです。
この能の情報をいかに無駄なく広く流すかという“永遠の課題”が、答えの無いまま、仲間内だけでの“お知らせ合い”に終始しているのが、自己批判を含め現状だと思う。マスメディアによる無差別流布ではない、相手をはっきりと認識した、人が人に伝えるというコミュニケーションの原点に帰った所から再出発していかなければ、能楽界再生の為の力強い核は出来ないだろう。その為には“どの人”に伝えていくかが大切なのだが、それをこの『通信』や『集い』の中で見つけていければと思う。 |
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【特集】観世銕之丞氏インタビュー「大いに語る」 |
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◆「求塚」と「三山」
「求塚」という曲は観世流ではしばらく廃曲にされていたのです。能では春の曲は少ないということもあって、春のいい曲を復曲したいというレパートリーのバランス的なことも先代の家元は考えておられたんだと思うんです。六世銕之丞華雪が長いこと先代の家元観世元正先生の後見に立ってまして、元正先生の成人にともない後見職を辞してその記念というのか、華雪は非常に知識もあるし手堅い能の作り方をされる方なので「求塚」の復曲を依頼されたんです。それで昭和二十六年復曲をして、そのときに「三山」も候補曲に挙がってたのだろうと思います。「三山」も「求塚」のときのように銕之丞にお願いすると。親父は八世ですから二代隔てているわけですけれども。ただし親父は復曲するにあたっては横道萬里雄先生に詞章のことなどを相談させて頂きながら復曲していったわけですね。それで後半の部分は古い詞章だと中途半端なので、もっと古代的な、メルヘンチックな感じにしていきたいとか。前シテと後シテの長さのバランスが違いすぎるので中入りの位置をクセの後半にしたり。でもクセの後の掛け合いも魅力的ではあるということで両様にして残したらよいのではということになって。三山の最後を改作したのは親父の飛鳥の地に対する憧憬といいますか、親父は昭和六年生まれですけれども、そういった人たちの古い日本に対する憧憬があるように思います。
実際の復曲作業は山本順之さんと謡いながら作っていたようでしたが、ツレは野村四郎さんということはわかっていましたから、順之さん四郎さんと相談しながら形を作っていましたね。観世流の正式なレパートリーに入れるので全国の観世会でやるわけなんです。その時に割合ツレ(桜子)をさせて頂きました。それで自分としては曲に馴染んだ部分がありますね。親父も全国でやっていくなかで曲の位を固めていったところはありますね。ですから初めのうちは前シテの位も随分しっかりしてましたね。今はそれから十何年経ちますからつまるところはつまって。観世流はもともと陽気な謡い方になってますので、後は割合華やかになっていると思います。これでまた十年くらい経つと大分変っているかもしれませんね。毎年やるわけではありませんから、どうしても十年二十年というサイクルで振り返ることになってくるんじゃないかと思います。
シテは今度の響の会で三回目になります。舞囃子は何回かさせて頂いてます。やはり親父が入れ込んでた曲でして、親父の言い方によると「これは女の修羅能なんだ」と。曲の分類からいえば四番目物なんでけど、これは女性の修羅能なんじゃないかと。女性の情念が表に出てくるといいますか。親父は実際の曲の捉え方としては「野宮」とか「葵上」の延長線上にある表現をしてたので。思考とすると古代に対する憧憬もありましたけれど、実際にやるとなると六条御息所を叩き台にしてた感覚はあったようですね。面の使い方にしてもそう思いますね。本人がそこにいたら「違うよっ」て言うかもしれませんが(笑)。まあ華雪の祖父の「求塚」の場合見た目にはオーソドックスな作りをしておいて、中には凝った節や特殊な拍子当たりを作ったりしてますから。つまり表面上はオーソドックスでおとなしくて、内面では結構いろいろな実験をやっているという。親父の場合は最初から「三山」で積極的に新しい、現代の能という立場で作ってましたね。
◆復曲と現行曲
復曲でも現行曲も、能の作業としてはあまり変らないわけです。自分で培ってきた技術でそれをするということでしかない。ただ意識の上で復曲とか新作の場合には、自分でそれを演出していかなくてはならない。もちろん現行曲でも演出プランを作ってやるのですけれど、それ以上に教わること、伝承されてきているものをより強調していく面があるわけです。そういう部分での葛藤でもって当日が作られていくのだと。ただ親父の「三山」のように現代の能として作っても、華雪の「求塚」ように中に込めて作っても、結局再生産するときにそれぞれの人たちの中で曲が再構成されていきますので、結局現在の能にならざるを得ないと思いますけどね。
特に今の僕の場合は直接の師匠というのがいないわけで。伯父(観世榮夫)にアドバイスを求めたり、例えば順之さんや(浅見)真州さんに伺わない限りは自分のやり方で全部通してしまうということになりますから。それだと復曲も古典も変わらないということになっちゃうのかもしれません。
◆銕之丞襲名ということ
古典芸能の場合襲名というのは「格」といいますか、どういう「格」かといえば品格でも芸格でも格調の「格」でもあると思うんですが、いろんなことを背負ったという認識として名乗るというところがあります。ですから今ほんとうに背伸びをしてる状態なのですけれども。でもそうやって与えられた名に向かって努力することでいろんなものが変わってくるということはあると思います。襲名に関して、一つには銕之丞という名前を長く不在にしたくなかったということなんです。出来ればこういう名というのは生前贈与の形が良いと考えています。祖父(雅雪)の場合も六世が銕之丞を譲り隠居名の華雪を名乗って、それから華雪自体も家の責任から離れ比較的自由な感じで良い舞台を勤めていたようです。
僕の場合は親父が墓場まで名前を持っていってしまったので、早く名前をこの世に戻さないとという思いが強かったのです。自分も少なくとも二十年程は名前を守って後(息子)に生きている間に譲りたいと思っています。
◆多忙な状況のなかでどうするか
多忙といえば多忙ですが、年齢からいえば働き盛りなのであたりまえなのかもしれないですけど。今の僕なんかの場合だと、仕事が無くなるよりまだ体力を犠牲にしても受けていかないと。僕自身の将来のためにもそうしたほうがいいと思いますし。それから銕仙会のためにもそうせざるをえないところはあると思います。ただそれがお客さんの目から見て、「くたびれてるな」ってなっちゃうといけないんで。そこらへんのバランスですよね。ただ僕も襲名してそういうポストをぽんと受け取っちゃって、まだ自分の一番いいペースを見つけられていないです。それを探しながらいろんなことをやっていきたい。年齢的に四十代五十代で若いといえば若いですし、ベテランといえばベテランで。能という芸能は技術経験はもちろん、体力・精神力がいる芸能ですから、それを子育てなんかもしながらやっていくということですから、今から十年から十五年が人生のなかでも一番の勝負所だと思います。とにかく無理を避けていてはしゃあないということはあります。やりたいアイデアは沢山ありますし、どうやって実行していくかということですよね。問題は時間とお金ですよね(笑い)。とにかく親父の持論でしたけども能一曲一曲全部に違った味わいがなければしゃあないんだと。同じような曲であっても同じになるはずが無いということを言ってましたから。しかも一人でやるわけじゃないですから、それぞれの人たちの新鮮な面がでる稽古をしていかないといけないということですね。親父も言ってましたが、手間のかかることだと。それぞれに昔から伝承されてきたことと、ゼロから作っていくものとを両方つき合わせて、当日にもっていくという、それをやるのは時間がかかるんですね。ほんとに時間との勝負、それと三役の人たちを引っ張っていけるだけのインパクト、引力みたいなものが出せるかっていうことですね。
◆新しい観客への訴えかけ
六百年続いてきたってことは、やはり何かあるんだと思います。だけど形だけじゃ駄目だし、どこに本当の価値があるかってことに正解があるわけではないと思うんです。そこらへんが難しいわけですね。昔の形をずうっと守っていく、だけど守っていこうとしても世の中はどんどんかわってるわけだしお客様もどんどん世代がかわっていく。そういう人たちにどういうふうに働きかけるかっていうのは、一つには昔からの伝統的な能の面白さ、もう一つは演じている人自身の生き様みたいなもの、ボクシングや格闘技が与えるようなインパクト、その両方を受けとってもらえるような能をしていかなければならない。もちろん僕の中には代々親から伝わってきたものを伝承するという使命がありますけど、やはり能を通じて自分を表現したい。そうすることで自分がこの世に生を受けている許しを乞うっていえばおかしいんだけど、認めてもらうっていうね。お金を取ってお客様に見てもらうってことを社会的に許してもらうっていう。こんな変な商売ないですからねえ。実際見てすぐ分かるというものでもありませんし、それに対しての価値も分かりにくいことですし。映画とか美術品なら嫌いだったら見に行かなければいいんですが、能の場合はお客様もひとしきり見ちゃわないと帰れませんからね(笑い)。だから初めての方が来られても「なんだこれは?!だけど少し興味をそそられる」って思わせる工夫を、装束でもパンフレットでもいいし、していかないと。何の機会でもいいから、「あの言葉が、姿が心に残ったが何なのだろう」っていうものを。ほんとに能の場合何でもないような「さなきだに」とか「うたてやな」といった一つの言葉が心に残るということがありますから。
◆目指すべき能の姿
ほんとに難しいのは人間そのものが表に出すぎてしまっても、能の場合それが嫌味になってしまうということ。その人間なのか主役なのかっていう渾然一体になってないと。これ以上やったら能からはみ出ちゃうなってところまでやってしまうというのを、うちの祖父(雅雪)なんかも割合やってまして僕自身もそれを持ってるんですけれども。寿夫は僕が二十前半のときに亡くなってますので、よく分かってはいないんですけれども、寿夫という方は自分というものを分かりにくい形でばらばらにして、今の言葉で言えばデジタル化して曲の中にちりばめていくという物凄い高度なテクニックを持っていたんだと思います。それが圧倒的な評価を受けたんだと思います。寿夫の伯父の言葉では無機的に表現するということでしょうか。生々しくない、抽象的な表現。非常に知的な作業に向いてた性質だったんでしょうか。ただ寿夫の恐ろしい所は声や造形、精神力も圧倒的な強さを持っていたということなんです。ですから銕仙会の先輩達は寿夫のやり方を凄く意識されている。ただあんなことを今出来る人がなかなかいないんですね。親父はどちらかといえば若松(健史)さんや祖父みたいな割合と素直に人間を出していくやり方に近かった。ただ親父の場合はそれ以上に形が物凄く整ったところからやっている。若いころに形がきちんとしていたから晩年本人そのもので能をやってても嫌味にならなかった所はあるんじゃないかと思います。・・・ほんとに能は難しい、自分を出さなきゃいけないんだけど、どのくらい稽古のときに自分を殺して、そして再び舞台の上からお客様それぞれ心の中に自分というもののイメージを送っていけるか。僕自身はときどき山ごもりでもしたくなるんですが(笑い)、充電期間を設けて自分を変えたいなという願望はずっとあります。だけどそんなことしても結局変わらねえだろって(笑い)。僕自身緻密なことが出来る性質でもないので、とにかくざっくばらんに言えることはこんなふうに話して、能に対する親しみを持っていただく、そういうことを心がけていたい。特に若い世代への働きかけを、それも説明的でなく「なんか変だけど気になる」ってものを与えていけたらと思います。ですからあんまり分からせようってことは思わないで、だからって難しくする必要はないし。能は高尚なもんだって言い方したってね。あんまり人をケムリにまくようなずるいことはしたくないなって、地道に手堅くやっていきたいなってことはありますね。それだけで終わっちゃうかもしれませんし。僕は道を「角まで行って曲がりなさい」って言われたら、角まで行って曲がりたい性質なんです。空き地をななめに抜けて行ったりするようなことはしたくないんです。これはもう性格なんで、時間がかかろうとしょうがないんだと思います。自分のやり方でやって潰れたらば息子なり後輩なりが各々の自分の形でいくだろうと思います。ドラマチックなやり方で銕仙会を変えていこうとはあまり思ってないです。ただ今やってることの技術力、仕上げの精度を上げていきたい。 |
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【寄稿】村上湛氏「昨年の能を振り返って」 |
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落花狼藉の時候に旧聞には属するものの、所望に応えてこうしたことを考えるのもあながち意味のないことではないと思う。能・狂言は毎年しっかりと顧みられることもなく受け流されているのが現状で、ここには、舞台を見る者の思いが「言葉」となって記録されない、いわば批評・ジャーナリズムの欠如と言う宿痾が潜むのだが、長く続いている響の会が、簡便ながら定期的にこうした媒体を持つのは、わずかなことではあるけれども喜ばしい。この上は、自己宣伝や舞台成果の先読み記事は厳に排してもらいたい(個人催会のパンフレットにこの種の記事が何と多いことだろう。舞台人に求められるのは、事前の抱負ではなく事後の総括である。)
能・狂言をよりよく見ようとする時に観客として持ち合わせていたい視点は、(1)台本=戯曲の読み、(2)演出評価、(3)技芸評価、の三点で、(1)(2)の前提の上に初めて成り立つのが(3)のはずだが、「役者は芸だ」という乱暴な判断停止状態になると、単に「良かった、悪かった」の水掛け論になる。本年終了の橋の会のパンフレット『ブリッジ』にしばしば見られる「某師の舞姿に光が見えました……」のような奇蹟体験譚が良い例である。こうした中では結句、肝腎の舞台上の役者そのものがないがしろにされる。身体の危機という問題は今に始まった指摘ではないけれど、常に見直す必要があるのもまずはこの点である。響の会催主二人についても例外ではない。
清水寛二の理詰めのアプローチは、かえって生々しい肉体の存在を見せ付けたことがかつてあった。初役の〈乱〉。中ノ舞から乱に移る時に右の扇を大きくかざし全身をヒラク。こうした部分で、言葉は変だけれど「丸出し」の捨て身に身体を放り出す面白さがあったが、今はそうした「ボロ」はめったに出さない。内に静謐の気を湛えた(ように見せる)意のままな身体操縦が功を奏すと、昨年・青葉乃会での仕舞〈松風〉のようなすばらしい無音世界が現出する。とはいえ、これはカミソリ一枚の隙で破綻もする、意識の産物である。
清水寛二の「珍曲こだわり路線」と対照的に、名曲路線ともいえる選曲で自己を問うてきた西村高夫は、一時期キレ味のよい山本順之的な身体を模索していた時期があった。ところが、昨年〈忠度〉の惨状。こうあろうと意図する動きに身体がついてゆかず、静止部分では常に先のことを追い、自らを煽って終わった失敗作であった。清水の意識と違って西村の舞台は無意識のよさに見えるけれど、それは意識の位相が異なるだけで、内実はさして変わらない。山本順之が、暴発を秘めた緊張に追い詰めつつ自己を問う舞台から、円満具足の隠居芸に傾いている現在、西村の「若隠居」化はゆゆしき問題である。
清水寛二初演の〈龍田〉、西村高夫〈熊野〉、それこそ一皮剥けた花実相兼の美事な舞台だったが、それはいずれも十年以上前のこと。けれども、梅若六郎をしてあれほど緊張のうち完璧に舞わしめた昨秋の〈芭蕉〉は、地謡(劇中三度詞章を誤ったが……)代表される響の会の大きな成果である。手放しの賛美に価するこうした舞台を「たまに」見せられると、やはり当会の将来に期待しないわけにはゆかない、というものである。
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