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曲名: |
高野物狂《こうやものぐるい》 |
作者: |
世阿弥 |
季節: |
不定 |
場所: |
常陸・観音寺
紀伊・高野山 |
分類: |
四番目物・二場 |
上演時間: |
約1時間20分 |
上演データ: |
響の会
第28回研究公演
2005年11月16日(水)
銕仙会能楽研修所
シテ・清水寛二
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清水寛二〔撮影:響の会〕 |
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●あらすじ |
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文・長谷部好彦(響の会通信編集委員) |
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常陸の国の住人・高師四郎が現れます。四郎の主君・平松殿は去年の秋に果て、幼い嫡子・春満が一人残されます。四郎は平松殿から、「春満をもり立てよ」との遺言を託されていました。平松殿の一周忌に当たる今日、四郎は主君の墓前にぬかずきます。そこへ春満から突然の出家を告げる文が届きます。途方に暮れる四郎は、春満の行方を求め旅立つのでした。〈中入〉
春の高野山。そこには僧に伴われた春満の姿がありました。出家を望む春満は、「探しに来る者が現れるかもしれぬ」との僧の配慮から、いまだ俗体のまま。僧と春満は三鈷の松へと赴きます
一方物狂となった四郎は、春満の文を懐に抱き、幾つもの山川を越え紀の国・高野山へと至ります。そして三鈷の松の下に憩うのです。春満は四郎に気付くも、名乗りはしません。僧は異形の姿をした四郎を咎めます。その問答を押し返し、四郎は狂い舞うのです。都から遥か二百里の地に聳える真言密教の根本道場・高野山。かつて空海が新たな修行の地を示せ、と唐から投げ上げた三鈷が海を渡り、ここ高野の松に留まったと言われます。清冽な気に満つ奥の院では、飛花落葉までも無常を知らせるかのよう。昂揚した四郎は歌舞禁制をも忘れさらに舞い進むのです。〈中之舞〉やがて春満は四郎に正体を明かします。四郎は平松の家を継ぐべきことを篤く説き、共に故郷へと帰ってゆくのでした。
〔'05/11/16 第28回研究公演パンフレット掲載〕 |
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直面の物狂 ー〈高野物狂〉によせて |
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文・小田幸子(東京文化財研究所芸能部調査員) |
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役者にとって根本問題のひとつに、演じる役柄と自分との関係の取り方がある。「役になりきる」などというが、役柄との溝はそう簡単に埋まるものではない。年齢的・身体的ギヤップがあり、なかなか共感できない行動があり、言いづらいセリフがある。かといって、役柄と自分が近い方がいいというわけでもない。距離がとりにくく、かえって演じにくいのだ。役を演じる時の難しさと面白さとがここにある。
世阿弥が『風姿花伝』のなかで「直面は一見たやすそうだが実は難しい。…顔で演技するのはよくない」(「物学条々」)というのも、同じ問題だろう。仮面を用いる能にあって、男役者が素顔で現実の男を演じるのは例外だが、役者と役柄との距離としては最も近い。見る側も両者を重ねるだろうし、ついその気になってクサイ演技をしがちだ。当時、過剰に表情を変える役者もいたのだろう。ただ、「直面の物狂」(男物狂)は、どうしても表情演技をせざるをえないから、ことさら難物であり、いわば「物学の奥義」だとも世阿弥は言っている。
「直面」は見る側にとっても少々やっかいである。普通芝居では、多くの場合客は役者の顔を見、最大の情報源である表情の変化を通して内面を読み取ろうとする。役者もそれは承知していよう。ところが、現代の直面物は(男物狂でも)表情を極力変えないと聞いているためか、まじまじと見つめてはいけないような気がして、どこか居心地が悪い(仕舞のときは別)。物狂能は喜怒哀楽の変化をドラマにしたようなジャンルだから、表情が変わるほうが自然なのでは、などとも思う。能役者はどう感じているのだろう?
〈高野物狂〉は、世阿弥の息子元雅(もとまさ)が作曲した独立の曲舞謡(高野山の霊徳を讃える内容)を「クリ・サシ・クセ」に取り入れて、世阿弥が作ったと考えられている。全体の構想や展開は「女物狂能」の基本形と大差ないが、主人公が母でもなく親でもなく、傅(めのと)だというのが重要なポイントと思う。何らかの事情で俗世間の外部に立たされた時、人は今までとは異なる意味が人生にあると気づくだろう。主君の死後、大切に守り育ててきた幼君がひとことの相談もなく手紙だけを残して出家してしまった時のショック。男社会の価値観の中で生きてきたであろう主人公は、はからずも仏法の霊地高野山へと分け入っていく。弘法大師入定の霊場に足を踏みいれた彼の心には、如何なる変化が訪れたのだろう。観世流の現行謡本は、十五代観世大夫元章(もとあきら)による改訂本文を採用しており、結末でシテは主君を伴って下山するが、原作ではシテも共々出家を果たすのである。
改作も含めて世阿弥が作った男物狂能には、ほかに〈芦刈〉・〈土車〉・〈丹後物狂〉(廃曲)・〈逢坂物狂〉(廃曲)などがあるが、いづれも現代では上演の機会が少ない。『響の会』ではここ数年「袴能」を上演している。これも「直面の能」だ。そして今回の〈高野物狂〉である。直面の難しさを引き受けて、さらに、女物狂能とは異なる男物狂能の魅力再発掘を目指す本日の舞台を期待している。
〔'05/11/16 第28回研究公演パンフレット掲載〕 |
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